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エルの楽園

Twitterで垂れ流すには見苦しい長文を置きます。 あ、はてな女子です。

留年制度がイジメをなくす

タイトルは釣りじゃない。

 

順を追って話そう。そもそも「留年」とは何だろうか。

留年とは、進級時にある水準の学力に満たなかった児童・生徒を次の学年に進級させず、もういちど同じ学年を繰り返して再度勉強をさせることである。

つまり、「留年」には進級にふさわしいかどうかを判断するための「ある水準の学力」があらかじめ設定されている必要がある。これは、現代の日本の学校教育に欠けている大きな要素である。

わが国ではこの成績水準が欠如しているから、ただ時間が来たら小学校6年生で九九が言えなかろうがなんだろうが、ところてんのように進級することになる。また、学校以外の学力保証の方法を得られない。

 

文字通り死ぬほどいじめられても学校に行かなければならないのは、学校に行かないと人生のお先が真っ暗だからだ。学校に行かず卒業資格を得られないと「小中学校レベルの教育すら受けていないアホ」のレッテルを貼られ、まともな人生を歩むことができない。

ちなみに現行法では通学しなかった生徒の学力保証はその生徒が居住している学区の学校長が行う事になっているが、はなはだあやしいものだ。だって先程も述べたように、学力を保証しようにも「通学し続けました」以外の基準がないんだから。

こうして、ただ数年間学校に通い続けたという実績を得るためだけに、どんなにつらい目にあっても学校に行き続けなければならない不幸な子どもが量産される。

 

留年制度さえあれば、つまり「進級に必要な学力水準」が明示・共有さえされていれば、その学力水準に達していればどのような方法で学習したかなんてどうでもよくなる。学校でその学力を身につけても、フリースクールでも、自宅で家庭教師や通信教育による教育を受けても、進級認定の試験にさえ合格すればよい。無理に学校に通う必要なんてなくなる。

 

元来学校とは、普通教育を子弟に受けさせる保護者のために国家が用意した一手段でしかなかった。それが唯一絶対の学力保証機関になってしまったのは、歴史のなかで留年制度を放棄した結果の不幸だ。

 

 前回の記事にも書いたが、イジメは予防・解決が原理的に不可能であり、イジメに対する有効な対処は「転校」ぐらいしかない。学校という出入り不可能な共同体制度こそがイジメの温床なのだ。

留年制度の導入は、この学校が持つ閉鎖性をこじ開ける力を持つ。

 

子どもはいじめられたらその日から気軽に登校をやめればよい。後の学習はチャレンジでも持って図書館に行くか、地元にフリースクールがあったら顔を出してみるのもよい。ほとぼりが冷めたら、再度学校に戻ってもよい。

親は子どもが勉強さえしていれば、学校に行こうが行くまいが好きにさせたらよい。学校に行かなくても、ちゃんと学力が身についている限り、その子の将来には何らの影響もないのである。もしくは今まで学校制度の壁があり諦めていたインターナショナルスクールの利用を望む親が急増するかもしれない。普通の学校よりも、特色ある教育をウリにした小さな私塾が流行るかもしれない。

もし自クラスの生徒がホイホイと不登校になると困るような教員は、そんなことが起こらないように学校を少しでも居心地のいい空間にしようと努力するだろう。いや、実は学校の方も子どもの不登校を歓迎するかもしれない。自殺するより前に不登校になってもらえば、それだけ面倒事のタネが減るのだから。通学が完全に自由な世界では、不登校児が多いくらいで校長が教育委員会から怒られることはない。そもそも、不登校などということは問題にならない。

 

学習手段の多様化は子どもを、そしてみんなを自由にする。留年制度は子どもに勉強を押しつける圧殺の手段なんかじゃない。むしろ子どもを学校から解放し、自由な人生を提示する、多様化社会にふさわしい制度なのだ。

 

学力と評価の“今”を読みとく―学力保障のための評価論入門

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