エルの楽園

Twitterで垂れ流すには見苦しい長文を置きます。 あ、はてな女子です。

あの時、わたしが考えていたこと

もうすぐ二十歳になる年下の友人に、わたしが彼女くらいの年齢だった頃は何を考えていたかと聞かれたので、人生のどこで何を考えていたのかを思い出しがてら備忘録を書いておく。それぞれの年齢において生活や恋愛や仕事の悩みなどは相応にあったが、それは特に年齢固有のものではないと思うので、あくまで「その年齢」に考えていたことを記録する。

(※発言は個人の感想です)

 

10歳の頃、世界には秘密がたくさんあって、わたしたちにはそれが隠されていると思っていた。

大人たちは世界の秘密を知っているけれど、彼らにも何か都合があるのか子どもにはそれを教えない。だから何とかしてそれを暴いてやりたいと思っていた。

市立図書館の隅っこに放置されている、小さな字の古ぼけた本、街路の植え込みの下の暗がり、無数に落ちているきれいな石やドングリの中、そういったものに世界の秘密が隠されていると思っていた。だって大人は、わたしがそういったものを丹念に調べようとすると「なにをグズグズしているの、さっさとしなさい」などと叱ってそこから注意を背けようとするのだから。

堀辰夫「ルウベンスの偽画」に、ヒロインとその母の指が「彼女のふっくらした指」と「夫人の引きしまった指」と描写されている。それを読んでわたしは思わず自分の手を眺めた。10歳の童女の指はまだ細かったが、引き締まってもいなかった。わたしはもう少し自分が長じたらこの指が太り、そして大人になったら細くなるのだと思った。世界の秘密をまた一つ知った思い出として、とても印象に残っている。

 

15歳の頃、日常が永遠でないと知って、日常の終わりを恐れていた。

この年齢の子どもの生活は目まぐるしくて、3年程度で所属するコミュニティや社会からの取り扱いがどんどん変わってしまう。しかも、当時は阪神大震災オウム事件等も記憶に生々しく、日常なんてまったく永遠ではなくて簡単に崩れてしまうと思い知っていた。社会全体がいわゆる「世紀末」思想の全盛期だったころだ。

今の日常もきっとすぐに終わってしまう。その時はどうなってしまうのだろう?今の自分には大切なものやひとがたくさんあるのに、それらはきれいさっぱり失われてしまうんだろうか?

一日でも長く今日が繰り返されればいいと願っていたけれど、同時に、必ずくる日常の終焉に対してどういう対策をとればいいのか、具体的な方法を知りたいと思っていた。

 

20歳の頃、自分が分別を完璧に備えた一人前の大人だと思っていた。

同い年の男の子がどうしようもなくガキくさく見えて、あまり関わりたくなかった。自分と違う考えや価値観を内心バカにしていた。それでも、もういい大人なのだから世界に対して理性的な態度でいなければいけないとも強く思っていて、今までの人生でやったことがない事には可能な限り挑戦した。苦手な食べ物を食べてみたり、視界に入る喫茶店とバーには全部入ったり、遠くへ旅をしたり、全然関係ないゼミに乱入したり、見知らぬひとに会いまくったり、創業をして遊んでいたのもこの頃だ。めちゃくちゃに勉強したし働いたし、その反動でこんこんと寝込んだりを繰り返したりした。

世界に対する恐れは消えていて、ある種の博愛のようなものが芽生えていた。世界はわたしが生きるための道具ではなく、それ自体愛すべきものなのだと知った。

 

25歳の頃、こんなことをしていて意味があるのかと思っていた。

どんなことに対しても意義や客観的理由を求めるようになっていた。素直に「やりたいからやる」という気持にはなれなくて、なにか人生でキャリアになるとか、ひとに自慢できるとか、社会的に意義がある行為だからやる、とか、そういうのがなければなにかをすべきではないと思っていた。

人生に対していわゆる効率厨になっていたと思う。やりたいことは物凄くたくさんあったのだけれど、それを全部やっていたら到底身がもたない。だから選別のためにそうした理由を必要とした。そうして選ばれた「やりたいこと」は、どれも大成功とはいかなかったが間違いなく楽しかったし、有意義だと感じられた。でも、段々自分の「やりたい」という動機の重みは下がっていった。

 

30歳の頃、このままでいいのかと思っていた。

それなりに充実も安定もしていて、公私ともに恵まれ幸せに暮らしていた。おとぎ話の結末の「末永く幸せに暮らしました、めでたしめでたし」状態だった。でも今までの人生で、むしろ未知や不確定に慣れ切ったわたしには、ずっと同じ状態でこれから先の人生を過ごすなどと考えるとむしろ焦燥感が湧いてきた。

人生は変化しなければならないと思っていた。特にどうしてもこれといってやりたい困難な挑戦があった訳でもないが、しかし自由と快適はトレードオフだ。苦労なら今までに売るほどやってきて、ずっと安定した快適な生活を望んでいたはずなのに、いざそうなるとなんでまた大変な目に遭いたいなどとアホなことを考えるのか、我ながら理解に苦しんだ。バカな考えをなんとかして鎮めて、ちゃんと足元の今ある幸せを享受するのが人類の務めだとも思っていた。

 

それぞれのタイミングで考えていたことで、今はそう思っていないこともたくさんある。世界の秘密はもう、作る側に回った。日常の変化も、受け止める方法やどうしても変えたくない部分を守る方法を学んだ。多数の失敗を重ね続けて、自分は永遠にガキだなと思い知った。人生の意味はその時の自分だけが判断するのではなくて、周囲のひとや未来の自分も関係するのだから、今の自分ひとりで意味などを考えても仕方ないとわかった。そして、結局のところバカにつける薬はないことも分かった。

でもそのことをタイムマシンでそれぞれの時期の自分に伝えても、きっと全然理解してもらえないだろう。「何言ってんのこのおばさん??」で流される。自分のことだ、手に取るようにわかる。だから、今から過去の人生を振り返って後悔の類は全然ない。どうせ誤った選択に差し伸べられる救いの手を、それぞれのわたしは愚かにも誇り高く振り払うのだ。

35歳の自分がなにを考えているのか今はまだわからない。でもきっと彼女は、今のわたしが知らないことを知っていて、今のわたしが理解に苦しむことをやっているんだろうと思うと、ちょっぴり楽しみではある。