実名/匿名論争を投資モデルで考える
あるいはわたしがFacebookを嫌いな理由について。
オンラインの世界でもそうじゃないところでも、ある名前を使用するということは、その名前に「評価」を蓄積させることと同義だ。その名前で何かを発言・発表すると、それに対する同意や非難がその名前に蓄積されていき、それがその名前のもつ「評価」となる。
これは一種の投資行動とみなせる。名前の決定は投資口座の開設と同義であり、その名前における活動は個々の投資活動と同じだ。そしてその結果、投資に成功したり失敗したりして資産としての評価を形成していく。「評価経済」という言葉だってある通り、これは目新しいアイデアではないはずだ。
匿名を使う、たとえば自作の小説を発表するにあたってペンネームを用いる、Twitterで非実名アカウントを作る、これらはすべて投資口座の新規開設と同じだ。それぞれの口座は紐づけることもできるが、大抵はバラバラに運用する。紐づけたいなら最初から同じ口座で運用したらいい。複数の口座を開設するのはリスク分散のためだ。
さて、実名という口座は
- 一生に一回だけ、1つしか開設できない
- 運用に失敗した際のリスクが全投資口座中最大
- 得られるリターンが全投資口座中最大
という頭一つ抜けてハイリスクハイリターンな、特別な投資口座である。
匿名口座でも、例えば職業作家のペンネームなどのように実名口座より大きな評価資産の形成は可能であるが、それはあくまで運用バランスの問題であって、実名口座が匿名口座よりも大きなリターンを得られることは間違いない。
既に実名口座を運用しているひとにとっては、同様に実名口座を運用するひとが増えれば増えるほど投資リスクを下げることになる。実名口座で破産するひとが増えれば増えるほど、個々の破産者に対する社会の注目度は相対的に下がっていくからだ。
また、人間の心理として自分がハイリスク運用を行っていると、他のより安全な匿名によるローリスク運用を行っている人間が卑怯者に見えてくる。「俺はこんなに日々危険な思いをして一言一言をしゃべっているのに、何だあいつは」と思えてくるのだ。平等原理というものである。かくして「匿名の卑怯者」という罵り文句が登場する。
しかし評価市場は個々の参加者が己の見識と能力において、己の才覚の限り自由なやり方で戦える知的バーリ・トゥードの場だ。己の実名を賭けてこの戦場を生き抜く決意をした戦士が後ろを振り向くのは女々しいし、ましてや自分より等級が低い(と自分では認識しているのであろう)相手を罵るのは見苦しい。
誰かの投資スタイルに難癖をつけるやつは投資ノウハウゴロと相場が決まっている。自分が実名で活動していようが匿名で活動していようが、他人のそれに説教口調で口を出す人間は信用しない方がいい。古来からの市場の教えだ。
あ、Facebookを嫌いな理由を忘れていた。
Facebookは場のルールとして参加者にたったひとつの実名口座しか開かせないことになっている特殊な市場だ。一見オープンで公平で、ある種自由な市場に見えるが、ここに参与した人間には失敗が許されない。Facebookで自分の評価を破産させてしまったら、Facebookに紐づいた他の口座や、場合によっては現実の社会的地位まで芋づる式に破産させられてしまうのだ。
インターネットは失敗した過去を持つ人間、脛に傷のある人間でも、そんなことを気にせず口座を開き直し、一から評価という資産を形成できる可能性のある市場だったはずだ。その点においてFacebookはまったくオープン・インターネット的ではない。それに、複数の口座を開かせない証券会社なんてどうかしているよ。今更、ただヴァーチャルで巨大なだけの伽藍に用はない。
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